こんにちは、シリカです!
このページをお読みいただきありがとうございます!
年令はアラフォー世代の仲間入り!
アラフォーのくせに定職にも就かず(いや、就けなかったが正解(笑))、派遣社員として勤めていました。
そんなポンコツな私が、2024年7月に派遣社員を卒業し、晴れて「脱サラ」しました。
今では副業を本業にして、毎月50万円以上の安定収入を得ています。
でも、ここに至るまでの道のりは、決して簡単ではありませんでした。
私ほどのポンコツってそうはいないと思います(笑)
仕事も恋愛も何もかもうまくいかず、ついこの間まで私は自分が大嫌いでした!
でも今は大好きです!(笑)
少し長くなりますが、私がどんな人生を辿ってきたか、良かったら見てみてくださいね。
幼少期:3人兄弟の長女として
私は3人兄弟の長女として育ちました。
家は、めちゃくちゃ貧乏というわけではありませんでしたが、一般家庭よりは少しカツカツな生活でした。
親は共働きで朝から晩まで働いていましたが、家の中にはピリピリした空気が流れることも多く、兄弟ゲンカが起これば、必ず最初に叱られるのは私。
「お姉ちゃんなんだから、ちゃんと見ててよ」と言われるたびに、「どうして私だけが悪者?」と心の中でつぶやいていました。
でも口には出せません。
私はいつだって“しっかり者”でいなければならない、そんな役割が押し付けられていました。
家事も育児も「長女の仕事」
小学校に入ってすぐくらいから、私には家の中での“仕事”が与えられていました。
親が働いているクラスメイトも他に何人かいましたが、大抵の子は学童に入ります。
でも私は家の手伝いをしないといけないので、学童には入りませんでした。
学校が終わると、友だちは「今日はどこで遊ぼう?」と楽しそうに話していましたが、私の頭の中は「洗濯物を取り込まなきゃ」「晩ご飯の準備を手伝わなきゃ」でいっぱいです(笑)。
友だちから誘われても、「今日はちょっと忙しいから」と断ることが当たり前になり、気づけば誰も誘ってくれなくなりました。
「きっと家の手伝いが大好きな子だと思われてるんだろうな」と苦笑いしながら、心の中で泣いていました。
夕飯で卵焼きを作る時は、端っこのカピカピのところを自分のお皿に入れて、真ん中の柔らかいところを、弟たちのお皿に盛っていたのを今でも覚えています。
子どもだから考えなくても良いようなことを、子どものころから考えていた気がします。
友だちと遊べないことよりも家の中の私の立ち位置が苦しかった
友だちと遊べなかったのは本当につらかったですが、ある日こんなこともありました。
学校帰りにどうしても友だちと遊びたくて、「今日は家の手伝い休みたい!」と思った私は、親に「帰りが遅くなる」と伝えずにそのまま遊びに行ってしまいました。
帰宅すると、家の中は騒然としており、母親が「どこ行ってたの!」と怒鳴り声を上げる中、弟たちは「シリカが家出した!」と大騒ぎ。
どうやら私がいないことで、家のシステムが完全に崩壊していたようです。
結局、こっぴどく怒られ、「これからは友だちと遊ぶなんて言わないから!」と涙ながらに謝ったものの、心の中では「やっぱり私は家の歯車なんだ」と感じるきっかけとなりました。
比べられるつらさ
弟妹たちは「要領の良い子」でした。
親が見ている時に宿題を適当に済ませ、ほとんど勉強しなくてもテストでは80点や90点を取るようなタイプでした。
一方で私は、机に向かって何時間も頑張っても50点や60点がやっと。
「なんでシリカはできないの?」と親に呆れ笑いされる仕打ち。
自分でもなんでこんなにできないのかわからなかったです(笑)
2択の問題ですらうっかりミスで間違えて、ことごとく点数を落とすタイプ。
いつも私に面倒を見てもらっている、弟妹たちも私をフォローしてくれるわけでもなく、「なんでできないの」と一緒に笑う始末。
でも、今になって思うのですが、弟と妹は何も悪くありません。
あの環境で育つと、私をバカにしてしまうのは当然でした。
これも今だからこそ、わかるのですが、親も悪気があったわけではないと思います。
共働きで家計を支えるために必死でしたし、3人も子どもがいれば、余裕がなくなるのは当然です。
でも、当時の私にはそれがわかりませんでした。
「じゃあどうして弟と妹を生んだの?」とすら思ってましたし、幼いながらにいろんなことに疑問に感じながら育ちました。
よく、映画とかドラマで、貧しい家庭とか【複雑な環境で育った子ほどいい子】みたいなエピソードあるじゃないですか?
私の場合はそんなんじゃなかったです(笑)
心の中でずーーーっと悪態をついていたし、それでも気が晴れない時は、弟と妹の大事なものを隠して困らせたりとか、ク〇人間の中のク〇人間でした。
こうした環境で育った私は、自然と「私さえ我慢すれば面倒くさいことも起こらない」という考えを持つようになりました。
自分の気持ちは後回しにして、家族のために動くことが当たり前。
夕飯の片付けを終えた夜、布団に入って「今日も親に何も言われなかったな」と感じる虚しさは、今でも心に残っています。
それでも、「こんなに頑張っているのに誰も気づいてくれない」と思う気持ちは、いつも笑顔の裏に隠していました。
就活時代:高卒で挑んだ就職活動はことごとく落とされて挫折
私は高卒で就職活動をしました。
同級生たちが専門学校や大学進学を選ぶ中、「早く家にお金を入れなければ」という思いから、就職を希望しました。
だけど、現実は甘くありませんでした。就職活動を始めた途端に、すぐに壁にぶつかることになります。
最初の企業では、書類選考で落とされました。
そのときは、「たまたまだろう」と自分に言い聞かせていました。
でも、それから何社も受けるたびに不採用通知が届くんです。
次第に「私って本当に誰からも認められないんだな」と思うようになりました。
特に辛かったのは、面接官に「うちでやりたいことって何?」と聞かれて何も答えられなかった瞬間です。
正直、何がやりたいのかなんて分からなかったんです。
よくそれで就活してたなって思います(笑)
ただ、「働かなきゃ」という気持ちだけで動いていた自分が、急に恥ずかしく感じました。
妥協して選んだ派遣社員の道
結局、何社も落ち続けた私は、派遣社員として働く道を選びました。
「正社員じゃないけど、仕事があるだけマシ」と自分に言い聞かせていましたが、心の中では「また妥協してしまった」と思う気持ちが消えませんでした。
派遣社員として最初に配属されたのは小さな事務所。
仕事内容は簡単な書類整理やデータ入力が中心でした。
「簡単な仕事だから誰でもできるよ」
と言われましたがそれはそれはポンコツで使い物になりませんでした(笑)
どこかで、自信はあったんです。
家の中でずっとお手伝いをしてきたから。
人並みに仕事を覚えて人並みの成果を上げられると思ってたんです。
でも本当に思った以上にできませんでした。
家と外の社会とは全く別物。
逆に私は、これまで外の世界に触れる機会が圧倒的に少なかったことがわかりました。
私がなかなか仕事を覚えないので、だんだん事務所内の雲行きが怪しくなってきます。
私が事務所に入って行くと、急に話を止める先輩や上司。
あとから「あの覚えの悪すぎるシリカさんをどうする?」って話していたことがわかりました。
これで正社員になれなくて落ち込んでたとかありえないですよね(笑)
私は自分のことをわかっているようで、一ミリもわかっていなかったことにこの時に初めて気づきました。
気づけば職場でも居場所がなくなっていました。
結局「どこに行っても同じ」
社会人になれば、家族の中で押し付けられてきた役割から解放されると思っていました。
でも、現実は違いました。
職場では、次第に先輩や上司のミスを押し付けられるようになりました。
ミスをしたのはあの
ポンコツのシリカさんに決まってる
事務所内のミスは私のせい。
私がやった雑務は誰かの手柄に。
「ポンコツのくせに」
「派遣だから契約ギリギリまで高いお給料払ってるんだから」
という言葉が聞こえてきそうで、何も言えませんでした。
本当に働き始めた数年間はきつかったです。
「家族の中でも、職場でも、私はどこに行っても同じなんだ」と絶望的な気持ちになりました。
尽くしすぎる恋愛
私が付き合った相手には、どんな小さなことでも喜んでほしいという気持ちが強く、いつも「良い彼女」でいようと無理をしていました。
デートの場所選び、彼の好きな食べ物のリサーチ、誕生日プレゼントも予算を超えて頑張ってしまう。
彼が「これ好きなんだ」と何気なく言ったものを次のデートで用意して、「これ、前に好きだって言ってたよね!」と渡すと、「そんなに覚えてたの?」と驚かれるのが唯一の喜びでした。
でも、その努力が報われることはほとんどありませんでした。
彼にとって私は、「自分のために頑張ってくれる都合のいい存在」だったのかもしれません。
付き合って数か月が過ぎると、彼の態度は冷たくなり、連絡の頻度も減っていきました。
私の恋愛はいつもこうでした。
自分からメッセージを送るたびに、「また私が追いかけてる」と虚しさを感じました。
33歳、彼氏に振られた日
33歳を迎える少し前、3年半付き合っていた彼氏に振られました。
彼は、優しくて穏やかな人で、私は本気で「この人と結婚したい」と思っていました。
でも、一向に進展する気配のない恋愛の末、思い切って「今後のことをどう考えているのか」聞いてみました。
そして、最後に言われた一言が胸に突き刺さりました。
「シリカと一緒にいると将来が見えないんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中は真っ白になりました。
彼にとって、私は未来を共に描ける存在ではなかったんだと今更気づき、いい加減ポンコツな自分に涙が止まりませんでした。
私は彼の時間を無駄にしてしまったんだと、自分を責めることで何とかこらえていました。
失恋の痛みを引きずる中、ある日、友だちの紹介で知り合った男性と一夜を過ごしてしまったことがあります。
本当に好きでもない相手でしたが、「こんな私でも必要としてくれるなら」と思い、自分を傷つける選択をしてしまいました。翌朝、目が覚めたとき、自分に嫌悪感しか湧いてきませんでした。
「私は何をしているんだろう」「こんなことをしていたら、本当にダメになってしまう」と自分を責め続けました。
自分を大事にしない行動をしてしまったことへの後悔の念がなかなか消えませんでした。
このままではいけない。
このとき、心の底から「変わりたい」と思いました。
「私を変えられるのは私しかいない」と気づいた瞬間
自己嫌悪に苛まれていた私は、日に日に自分が嫌いになっていきました。
誰にも話せず、一人で抱え込む夜が続きました。
家に帰ると、狭い部屋の中でただベッドに倒れ込むだけの日々。
「どうしてこんな人生なんだろう」と思いながらも、何も行動を起こせない自分に嫌気がさしていました。
子どもの頃、長女として家族に尽くし続けた自分。
社会人になってからも、評価されることのなかった自分。
そして恋愛でも、いつも相手に合わせて自分を押し殺していた自分。
「結局、私はずっと周りのために生きてきただけなんじゃないか」と思うと、涙が止まりませんでした。
でもその瞬間、心のどこかでハッとしました。
悲劇のヒロインを演じている自分に今更気づいたんです。
「私はいつも『私ってかわいそう』って自分に甘えてただけだ」と思い、恥ずかしくてたまりませんでした。
自分を変えようともせず、ただ周りのせいにして逃げていただけ。
悔しさと情けなさで胸が締め付けられるような感覚でした。
その夜、私は決意しました。
「もう二度とこんな自分には戻らない」「絶対に人生を変えてやる」と。
「私を変えられるのは私しかいない。」
それは、これまでの自分を否定する言葉でもあり、これからの自分を肯定するための言葉でもありました。
それから私は、スマホで「自分を変える方法」「人生を変えた人」など、さまざまなキーワードを検索し始めました。
そこで目にしたのが、「副業で人生を変えた」というストーリーでした。
過去に悩んでいたのは私だけじゃない。
むしろ私なんかよりももっと壮絶な過去を背負った人もいる。
みんな色んな思いを抱えながら、それでも人生を変えたく頑張っている。
変えた人の溌剌とした笑顔がそこにありました。
私もこんな風になりたい
もう派遣として窮屈な働き方はしたくない。
誰からも束縛されず、経済的にも豊かになって、もっと自分の時間を自分のために使えるようになりたい!
こう思うのは自然なことでした。
これまでの人生、失敗続きだった私が、「本当にそんなことができるの?」と半信半疑な気持ちもありましたが、心の奥では「これが私のチャンスかもしれない」と小さな希望が芽生えました。
このとき私は、「このまま人生を諦めて生きるか」「勇気を出して新しいことに挑戦するか」の二択しかないと感じていました。
そして初めて、自分を変えるために行動を起こす決意をしました。
副業の挑戦と失敗、そしてAIとの出会い
「私を変えられるのは私しかいない」と気づき、行動を始めた私。
しかし、それまでの人生がポンコツそのものだった私が、そう簡単に成功するわけがありませんよね(笑)
最初は「副業」という言葉に希望を抱き、いろいろなことに手を出しましたが、どれもうまくいかず、失敗の連続でした。
最初に挑戦したのは物販
ネットで「初心者でも簡単に稼げる」と書かれていたので、「これなら私にもできるかも!」と思い、勢いよくスタートしました。
近所のリサイクルショップで商品を仕入れ、フリマアプリに出品してみましたが、予想以上に売れません。
商品写真を何度も撮り直しても閲覧数が伸びず、「もしかして値段が高すぎるのかな?」と値下げを繰り返すうちに、赤字になってしまいました(笑)
部屋には売れ残りの商品が山積みになり、完全にお手上げ状態でした。
その後、人に教わらないといけないんだということに気づき、物販スクールに入りました。
独学よりは売れるようになりましたが、物販プレイヤーは仕入れ続けなければ売上げが維持できないという現状を目の当たりにし、やればやるだけ自転車操業になってしまうことに気づきました。
ですが、この物販で学んだ外注化や自動化ノウハウだけは、今でも私の強い味方になってくれています。
次に挑戦したのは動画編集
YouTubeが流行っている時期だったこともあり、「これからは動画編集が稼げる!」という情報を鵜呑みにしました。
編集ソフトを購入し、YouTube動画を作っている友だちに頼んで練習をさせてもらいました。
でも、技術を身につけるのは簡単ではありませんでした。慣れないソフトの操作に悪戦苦闘し、「やっと完成した!」と思ったら、クライアントから「もっと動きのある編集がいい」と指摘されてやり直し。
結局、納品できた頃には時給換算で200円以下。
心が折れてしまい、「私には向いていない」と諦めるしかありませんでした。
「次こそは!」と挑んだのがインスタアフィリエイト
Instagramでフォロワーを増やし、商品を宣伝する方法です。
最初は投稿内容を考えるのが楽しくて、「これなら続けられそう!」と思っていました。
でも、投稿しても「いいね」が数個つくだけで、フォロワーもまったく増えません。
「SNSで稼ぐ人って、どれだけすごいんだろう」と思いながら、いつの間にか投稿が途切れ、そのままフェードアウトしてしまいました(笑)
次に挑戦したのはブログアフィリエイト
「資金が0で始められるのがいい」と思い、本格的に取り組むことにしました。
ですが、一番最初に書いた記事は10日もかかってしまいました(笑)
ものすごく時間のかかることを一生懸命やりながら、「これっていつになったら収益化できるの?」という思いが頭をよぎるようになり、ついに3カ月目で挫折しました。
ことごとく何やってもうまく行かなかったんです!
失敗ばかりで心が折れそうになりましたが、それでも「人生を変えたい」「もうポンコツ扱いされるのは嫌だ」という思いだけで模索を続けました。
そんな中で出会ったのがAIでした
AIを活用すれば、ブログやコンテンツ制作の効率を飛躍的に上げられるという情報を知り、「これなら私でもやれるかもしれない」と思いました。
そこで私は、ブログ×AIの手法を取り入れることにしました。
試行錯誤しながら取り組み続けると、驚くほど早く結果が出ました。
なんと2か月目には月収が50万円に到達。
現在はAI×ブログにとどまらず
✅AI×コンテンツ量産(note有料記事販売)
✅自社コンテンツ制作(コンサル販売:今はやってません)
✅Tipsアフィリエイター
これらをワードプレスとXで集客しながら収益を上げています。
自分でも信じられませんでした。
これまで何をやっても失敗ばかりだった私が、初めて「できた!」と実感できた瞬間でした。
親との関係が変わった今
最近になって、親とよく話すようになりました。
ある日、母がふとこう言いました。
「あの頃は無理させて悪かったと思う」
その言葉を聞いたとき、胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになりました。
私はずっと、「どうして私ばっかり」と思い続け、親を責める気持ちを抱えて生きてきました。
でも、親もまた、生活に追われ、必死に私たちを育ててくれていたのだと、やっと心から理解できました。
結局、人は言わないだけで、みんな何かしらの思いを抱えながら目の前のことに精一杯なんだと感じます。
親も、弟妹も、職場の人も、私がこれまで出会ったすべての人が、それぞれの事情や思いを抱えながら生きている。
出会ったことのない人だってみんなそう。
そのことに気づいたとき、私はようやく、自分を取り巻いてきた人たちすべてに感謝できるようになりました。
親との関係も、私が大人になった分だけ少しずつ良くなってきました。
今では、もっと親と一緒に過ごす時間を大切にしたい、そして少しでも恩返しをしたいと思っています。
人生はいつからでも変えられる
振り返ると、私の人生は失敗や挫折の連続でした。
自分に自信が持てず、周りに流され、何度も心が折れそうになりました。
それでも、模索し続け、挑戦を諦めなかったことで、少しずつ自分を変えることができたのだと思います。
「人生はいつからでも変えられる」と、今の私は心から言えます。
どんなに遅くても、どれだけ失敗を繰り返しても、諦めなければ必ず道は開けます。
ここまで読んで下さったあなたの背中を押すきっかけになれば嬉しいです!
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!